ブログ…弊社秘書・スタッフの随想・メッセージ・独り言・・・。
時を遡ること1000年。西暦1008年(寛弘五年)の秋、一条天皇の中宮・彰子は出産のため親元の藤原道長の邸に里帰りしていました。そして無事に男子を出産し、内裏へ還御するため土産として献上品の準備に追われていたのでした。それは、色とりどりの紙を選び調えて、それに物語の元本を添えては、あちらこちらに清書を依頼し、その一方では清書された物語を綴じ集めて製本するという豪華浄書本の製作です。
― 彰子の女房兼家庭教師役として仕えた紫式部の日記に、こう記録されています。これが源氏物語に関する残存する一番古い記述だそうで…今がまさに『源氏物語千年紀』
その日記の一場面を再現…藤原道長と彰子、そして手前が自分の作品を前にする紫式部です。京都・新花屋町通堀川の風俗博物館にて撮影しました。
登場人物400人というスケールの大きさ、そして、豊かで細やかな心理・情景描写で綴られてゆく人間模様。恋愛と嫉妬、欲望と権力が渦巻く当時の平安王朝貴族の『生きること』そのものを表現した源氏物語。
主人公光源氏が、一晩を過ごした朝の光で相手の顔を初めて見て幻滅した場面とか、どこか現代とは違う感覚に違和感や可笑しさを覚えながらも、和歌を恋愛の判断基準とすることに、現代のメールやインターネット文化との共通点を感じたりもします。ちなみに政敵右大臣の姫・朧月夜に対して「私は何をしても許される身分です」と豪語するプレイボーイ・光源氏ですが、幻滅した先ほどの女性・末摘花に対しては、後見する者もないのでは?と行く末を案じて、自らが世話をすることに決めたりもしています。
倫理観や道徳観が相違する時代背景に安易な見方はできませんが、時代を超えて人間に共通する弱さや脆さ、そして愚かさや儚さと、どこか強さ優しさには、やはり共感してしまうところがあります。
「この世をばわが世とぞ思ふ…」と栄華を誇った藤原道長の庇護のもと、源氏物語の著者として、華やかさと幸福に包まれたであろうと想像される紫式部ですが、実は、その日記では次にこう述懐しています…
「親しかった人たちも、今では私をどんなに臆面なく思慮の浅いものよと軽蔑していることだろうかと思うと、それだけでとても恥ずかしくて、手紙をやることもできないでいます。気がふさぎ込み、思い乱れて悲しい。長年所在ないままに物思いをして日を明かし、暮らしながらも、花の色や鳥の音を見聞きするにつけても、季節で移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと気づく程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもない…」
紫式部のこの言葉は、里下がりした実家の荒廃を眺めてのもの。源氏物語著作のキッカケは、夫を亡くした悲しさを埋めるためでした。そこに原因があるのか、物語そのものが世に出たことか、それとも、校正をせぬままに道長に本を持ち出され世に出てしまったことか。はたまた、部屋を勝手に家探しされて持ち出されたとのことなので、人権無視のそのような扱いをされるその時代の女性の境遇を憂えたことなのか。はて、この悲しみの真の意味は皆さまご自身で解き明かしていただくとして、天才紫式部の心の奥をを読み解くには、やはり1000年の歳月は、とても長いものなのかもしれません。
王朝文化が花開いた平安時代。姫君が天皇と結ばれれば、摂関家として一族は栄華を誇り安泰。しからば貴族にとって、恋愛こそは権力を得るための手段。それは生きてゆくために絶対に欠かせぬもの。しかし打算だけでは生きてゆけないのも、やはりまた人間。
この当時の御所は、現在より西にあったそうです…ちょうど今の千本通りが京の中心。その大内裏正庁を模して建造された平安神宮…サイズは8分の5に縮小されてとのことですが…朱塗りの広大な社殿の色鮮やかさは、光源氏もその中を輝いて歩いたであろう絢爛豪華な平安王朝の華やかさを、そのまま今の私たちに偲ばせてくれます。
これからが紅葉の季節。京都の街はどこを歩いても、そこはもう源氏物語の舞台です。
錦繍うるわしき中、1000年前に気分をタイムスリップさせて、休日には京都散策と洒落こんでみてはいかがでしょうか。